最終回の今回は(連載だったのか)私の映画師匠の感想も織り交ぜてお話ししたいと思います。
私以上に突っ込んだところが不満だった様です。曰く「音楽家としてのファントムが描かれていない」のだそうで。私は舞台版もそこはすっぱり切ってあると思ったから別に何も思わなかったのですが…。流石「音楽こそ本当の趣味」と豪語するだけのことはあります。
「私の音楽に翼を与える」というセリフからスイッチが切り替わってしまったようです。
正直なところ、「ファントム、ジリーとくっつけばいいのに…」と思います。
虐待され蔑まれていた「化け物」を哀れに思い、救ったのはジリーです。彼女こそ、ファントムを人間としても、芸術家としても認めている唯一の人間です。
では何故唯一親切にしてくれるジリーではなく、顔を見て恐怖におびえるクリスチーヌに彼が拘るのでしょう。
自分の醜い顔を嫌って捨てた生みの親よりも、ありのままの自分を受け入れてくれ、(良くも悪くも)自分のしていることを咎めないジリーを彼は(想像の域ですが)育ての母親のように思っているのでしょう。しかし彼女は彼の音楽を歌うことはできません。
これこそファントムがクリスチーヌに拘る理由です。ファントムにとってクリスチーヌは初めて好意をもち、自分のことを理解してほしいと願う女性です。まだ花開いていない才能を見出す。「彼女だけが私の音楽に翼を与える」と。
彼は地の底で世間に見捨てられ虐げられた存在だと絶望しながらも、地上の世界に憧れてやまない。自分が受け入れられるような存在ではないと思い知らされてもなお、彼は地上世界に受け入れられることを夢見ている。
ファントムは彼女の才能に恋をしている。
オペラ座の上でラウルとクリスチーヌの愛の語らいを聞き、自分が蔑ろにされたと感じたファントムは数ヵ月後の後マスカレードで再び彼女の前に姿をあらわします。
スコア「ドンファン」を携えて。
「ドンファン」は明らかにファントムとクリスチーヌの関係を示唆し、彼女の才能を前提に書かれた音楽です。
これはクリスチーヌをどれほど理解しているかの彼の証明であり、同時にこれまで築いてきた二人の絆の強さを訴えるものであるのです。
ファントムにしてみれば、最近現れたラウルよりも自分の方がずっとクリスチーヌを理解し、深い絆が結ばれている自信があるはずです。それをクリスチーヌに思い起こさせるための「ドン・ファン」だと思います。
音楽家にとって音楽は人生の全て。
ラウルの持つものが「財産・名誉・顔・性格」等であるのに対し、ファントムは「音楽の才能」です。世間とは交流をしてこなかったファントムにとって芸術、ことに音楽は彼自身の全ての価値観を支えます。
ファントムとしても自分がラウルよりも「財産・名誉・顔・性格」の点が勝っているとは思わないでしょうが、何よりも「音楽の才能」だけには自信があるでしょう。
「アマデウス」をご覧になった方はいるでしょうか?
サリエリはモーツァルトの「音楽の才能」に嫉妬します。モーツァルト個人の下品さを憎みながらも彼の音楽を愛さずにはいられない。モーツァルトの口述を五線譜に書き留めるサリエリは、モーツァルトを介して至高の幸福を感じます。
クリスチーヌの葛藤もそこにあると思う。
彼女もオペラ座に所属するもの。芸術の信仰者の端くれです。最初は亡き音楽家の父を偲んで音楽芸術の世界に入ったのかもしれませんが、音楽そのものを愛するようになっている。
ファントムが父親が送った「音楽の天使」ではないと知り、醜い顔に怯え殺人に恐怖を覚えながらも、ファントムに思いが残るのは音楽を愛しているからです。
ファントムがドンファンの扮装をして現れたとき、予測していた彼女は即座に気付いたはずです。それでも「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン(ショウは続けなくてはいけない)」。
そうして歌い続けている時にクリスチーヌは悟るはずです。
これこそファントムの魅力であることに。この瞬間、ファントムの背後に見ていた父親は消え、彼自身を、彼の音楽を純粋に愛している。彼とのユニゾンはどれ程「音楽芸術の恍惚の域」を感じ、愛(信仰)を再確認させたか。
それはファントムも同じことでしょう。彼の音楽に翼を与えて、高らかに歌い上げる彼女自身を、その歌声を愛している。
オペラ座の舞台で歌い、喝采を浴びるクリスチーヌを見たとき、その時こそ彼は自分が理解されたと感じることが出来る。彼の音楽がクリスチーヌによって歌われ、世界中がその調べに耳を傾ける時、彼はようやく世界に振り向いてもらえるのです。
この瞬間だけはラウルには決して入ることの出来ない、音楽の神を崇拝する者同志の交歓です。
結局はクリスチーヌはラウルを選び、ファントムの元を去ります。ファントムよりもラウルを深く愛してるからです。
去り際にクリスチーヌは指輪をファントムに渡します。ここの意図は私には良くわからないのですが、ラウルとの愛の証の指輪=一人の女性としての愛の幸せの象徴を渡すことは、ファントムに対して多少なりともそういう感情があったことを彼に指し示しているとは思います。
でも私はその演出にひどく打ちのめされます。ファントムがクリスチーヌに与えた音楽よりも、ラウルがくれた指輪の方を大切に思っていることが見て取れるからです。
ファントムが理解して欲しいと書き上げた音楽は、クリスチーヌの心に響かなかったのか思うとどうにもやるせない気持ちになります。
ファントムが望んだのはただ彼自身が愛されることだけではないと先に述べました。
彼が望んだ愛は結局、クリスチーヌの望む愛とは相容れなかったから彼女はラウルの元に行くのですが、それは別にかまわない。哀しいけれど。愛情がある方に行くのが当然とは私も思います。
ただ彼が望んでいなかった(さすがに全くではないとは思うけど)形の愛の象徴である指輪が渡されるのがどうにもやりきれないのです。出来ることなら、彼に与えられた音楽を愛する彼女が見たかったのです。
「私が愛したことを覚えていて」といって指輪を渡すクリスチーヌではなく、「あなたが愛してくれたことを忘れない」といって、彼の音楽を歌い続け、世界に響かせてくれるような彼女であって欲しかったのです。
もともと打ち捨てられた子供であったファントムにとっては、愛されてもその愛を手にすることが出来なかった一生だったと言う記憶が残るより、彼の音楽を愛し、歌い継いでいってくれた方が慰められるように思うからです。
…と長々書いてしまいました。
そしたらこんな記事を発見しました。
ロイド=ウェイバーは「クリスティーヌがファントムに惹かれるのは、彼が危険そのものだったから。」と話している。
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